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八重の桜 徳富猪一郎 [大河ドラマ]

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文久3年(1863年)1月25日、肥後国上益城郡杉堂村(現在の熊本県上益城郡益城町上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士・徳富一敬(とくとみ・かずたか)の第五子・長男として生れた。徳富家は代々葦北郡水俣(現水俣市)で惣庄屋と代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。

父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」[注釈 1]のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した。

蘇峰は、明治4年(1871年)から兼坂諄次郎に学んだのち、明治5年(1872年)には熊本洋学校に入学したが、年少のため退学させられ、明治8年(1875年)に再入学した。

この間、肥後実学党系の漢学塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧訳聖書』などにふれて西洋の学問やキリスト教に興味を寄せ、明治9年(1876年)、横井時雄、金森通倫、浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・儒学から距離をおくようになった。

熊本洋学校閉鎖後の明治9年(1876年)8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学、京都の同志社英学校に転入学した。同年12月に同志社創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け[2]、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「神の王国」を建設することをめざした。
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明治13年(1880年)、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中途退学した[注釈 2]。 蘇峰は、こののち東京で新聞記者を志願したが、志かなわず翌明治14年(1881年)、帰郷して郷里熊本で自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、執筆も寄稿してナショナリズムに裏打ちされた自由民権を主張している。

明治15年(1882年)3月、元田永孚の斡旋で入手した大江村(現熊本市)の自宅内に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設。明治19年(1886年)の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて青年の啓蒙に努めた。その門下には宮崎滔天や人見一太郎らがいる。
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